かいらぎ山岳会とは

かいらぎ山岳会ホームページより 20083

このホームページは、新発田高等学校を卒業した山岳部のOB会で運営管理する「かいらぎ山岳会」のものです。 当山岳会は、元山岳部員で構成されるもので卒業と同時に会則に従い、自動的にかいらぎ山岳会に所属するものであります。
 また、会員情報や登山情報そしてOB会の親睦会を開催する事等を大きな目的といたします。 このホームページを通じて世代を超えた交流の場となることを願うものであります。

 

かいらぎ山岳会ホームページリニューアル 20199

管理者交代のために、ホームページをリニューアルしました。

管理者は、昭和31年卒笹川實から昭和52年卒小川洋文に交代しました。

HPは新旧両サイトともアップされています。今後は、新サイトにおいて、旧サイトから受け継いだ掲示板を中心として、情報の更新を続けていきます。旧サイトは、半世紀以上に渡るかいらぎ山岳会の歩みが記録されています。更新はしませんが、歴史的な遺産としてこのまま残していきます。

   
   山岳部のルーツ  昭和26年卒 川瀬鎮夫さん
新発田中学校でも開学以来、自然に憧れた学生が、山奥く分けいったでしょう。しかし、学校の体育部として活躍を始めたのは、何時なのかは多くの先輩・岳人が亡くなられている為に、残念ながらこれを知る事は難しい。残された情報と資料で思考してみる。
 
   1.先輩の証言高澤吉郎氏(昭和9年卒業)談
・新井寛励先生が、熱心に生徒を山岳部に勧誘して活動もしていた。昭和6年~昭和13年まで教鞭をとられ、芝中は勿論下越の登山指導に尽くされた。また新井先生は、下越山岳会の五人の設立発起人の一人となり、初代の幹事も勤められたお方です。
・新野直治氏(昭和13年卒業)は、大宝寺(軍隊の射撃場)で行われた各部の入部勧誘演説では、山岳部も行い新井先生もおられた。
2.部報「焼峰」第3号・・・昭和25年発行。

・佐久間淳一氏大正3年生まれ、(下越山岳会第4代会長)は、「十数年前、登山部長の新井先生、森谷周野(昭和7年卒業)両氏が芝中山岳部を指導しておられた頃、両氏に山についての蒙をひらいてもらった・・・・・」

4.これらの事から、それ以前から芝中で登山は行われていたかもしれないが、組織だって山岳部の活動が始まったのは、新井寛励先生が赴任された、昭和6年頃ではないかと思案される・・・・・

 
 

戦前のものと思われる資料から

山岳部の部名と活動   

部名は時により、変わる事もあるが、山岳部又は登山部の名が多い。新入生の部紹介に、学友会山岳部の名があり、長く部室に残された印鑑には徒歩登山部と刻まれている。戦中戦後は山岳部を使っていたが、近年は登山部を使っている。

また、当時の登山は、五頭・焼峰・二王子を主グランドとしており、時に夏季には飯豊赤谷道にはいったり、日本アルプスへも遠征したと思考される。冬は米倉の臼ケ森でスキー訓練を行っている。又、赤谷線東赤谷開通(昭和16年)以前「焼峰探勝」を実施している。戦後は高体連が登山講習会を開催し、県内外の山に登る機会が開けた。ついで、23・4年ごろより、2回生の小林兼一郎氏を始め、優秀な部員が多く育ち、澤登りを始めとして、探検的山登りに挑んで行った。
部報については、昭和15年2月に中西扇次氏が「焼峰4号」を発行している。戦後昭和22年に校友会山岳部再発足、11月2日に部報「山岳」が発行されている。(山岳班長島井宏氏)そして、復刻「焼峰」は25年に発行された

 

 
 

昭和37年頃の湯ノ平小屋

OB会・かいらぎ山岳会    

昭和24年 二王子岳合宿

昭和26年4月、山岳部OBが一室に集まり、(新発田高校OB)高橋剛を会長として、新発田高校山の会が発足した。しかし、会員は進学その他で、全国に散らばり、実質活動は行われず開店休業の状態だった。
 一方多くのOBの居留した東京では、30年OB会結成の機運が高まり、5月22日に発会総会が開かれた。 会の名称は色々意見があったが、西口(中村)得二氏発案の「かいらぎ山岳会」にきまった。

※ 焼峰13号「かいらぎ山岳会成立以後」高橋武より

注)梅皮花・・・・・梅花状の硬い粒状凸起のあるアカエイに似た魚の背面中央の皮、刀の柄や鞘を包むのに用いる。(広辞苑)


昭和32年12月30日焼峰遭難発生。以後OBは事後処理に勤めたが、組織の弱体が痛感された。そして、追悼碑の建設・遭難特集号の発行とともに、OB会の結成が話し合われ、4月6日に設立総会が開催された。なお、会の名称は東京OB会の「かいらぎ山岳会」をそのまま使用することとし、現在に至っている。
※ 
焼峰13「かいらぎ山岳会の動き」武田敏夫より