この扉は、「思い出のアルバム」と言うタイトルで皆様方の昔の懐かしい写真を掲載することにいたしました。 どうぞ皆様が必ずお持ちの写真を積極的に投稿してください。お宝の写真にコメントを添えていただければ 直ぐに更新いたします。また、もう一つは「今昔物語」のコーナーです。思い出の多い合宿生活・苦しかった事・ 楽しかった事・国体に参加した時の事・などなどを取り扱いと思います。また、失敗した事・事故を起こした事・怪我 をしたり色々な事がありました。そんな思い出を語って頂きたいと思います。
 
 
 

昭和42年夏山合宿(1年次)
   初めての飯豊。初めての長期入山。期待よりも遥かに不安が大きい。悪い予感はしばしば的中するもので、大石から大熊小屋までの初日、私は両足ケイレンと極度の脱水で大バテであった。皆から大きく遅れ、這うように大熊小屋に辿り着く。飲ませてもらった塩水が、染み入るように美味かったのを覚えている。

昭和43年春山合宿(1年次)

   
 
 


写真1)鉾立峰にて。思い思いの麦わら帽子が、当時の 夏山 ファッションである。

(写真2)洗濯平は飯豊の懐に深く抱かれた思い出の場所。今では訪うことができず、寂しい。
(写真3)ガリ版刷りの計画書。部員銘々が書き込んで作った。
 
 (写真4)雪面の輝き、暖かな陽光、雪解け水のきらめき。時には吹雪とガス。1年部員は、二王子の春山を体験して、初めて山の楽しみと喜びを知るのではなかろうか。
(写真5)余りに雄大で美しい飯豊の眺め。いつかは赤津を越えて・・・と多くの部員が夢を抱いたことだろう。
 
 

昭和43年夏山合宿(2年次)・44年春山合宿(2年次)
  学校にも部活にも慣れ、「2年部員は小生意気」といわれる頃。しかし残念ながら合宿の写真が残っていない。ザイルを新調し、

初めてハーネスを部の備品としたのもこの頃で、屋上からアプザイレンの練習をしたものだ。
また、ウエイトトレーニングも取り入れ始めた。創意と自主性は我が部の特徴であったと思う。ドッチャマに心労をおかけしたのもしばしば。

 そして・・・
  3年の歳月は瞬く間に流れる。我々の時代は、二王子の新人歓迎登山に始まり、二王子の送別登山で終わった。

(写真6)送別会の翌朝、3年部員が集う最後 の写真である。

屈託なき笑いが、照れ臭くも懐かしい。

 
 
 
 

この年の春山登山講習会は、芝高が幹事校となり二王子で行われました。3月の春山合宿で候補地を決めておいた、標高1100メートルほどの尾根上を幕営地にしました。まず、他校の女子部員のためにトイレが必要ということで、2年生6名が、目隠しのコモを担いで先行しました。幕営地から少し離れた場所に立派なトイレを作りました。この日の夕食では、カレーの材料を煮立てた大鍋をひっくり返すという悲劇がありました。でも幕営地がとっても気に入り、その後も同期の古川、渡辺と雪洞を掘って泊まりました。そのときも、渡辺が灯油のポリタンを誤って飲むという悲劇がありました。

 
 
 昭和50年(49年度)は、記憶が正しければ、杉浦先生芝高退職の年だったかと思います。ですから、この春山合宿が登山部顧問最後の山行だったと思います。そのことは、その当時多少の話題になったにせよ、3月下旬の二王子合宿は、伝統どおり粛々と進められました。なお、写真は、ほとんど全て杉浦先生撮影のものです。なお、卒業後2年目くらいに、50年卒から53年卒くらいの若い学年が集まり、杉浦先生の退職を祝う会を新発田の末広で行いました。
2年生5名(山田、藤田、中村、仲川、高沢)、1年生4名(坂上、島津、古川、小川)、合計9名、例年どおり、竹のフレームの重い冬天幕と灯油のポリタンクを背負い、二王子に向かいました。合宿地は伝統どおり一王子。今の冬道は、御子石を過ぎ上扇沢左岸の尾根にとりつきますが、この当時は、上下扇沢合流点付近から五本松の尾根にとりつくルートでした。(いつからルートが変わったのでしょう?)急登できついルートでした。五本松で小休止したとき、島津の背負っていた灯油がもれて背中がただれていました。
 
 1日目は、一王子で天幕設営泊まり。夕飯のメニューは相も変わらずカレーライス、紅茶。朝は、鳥釜飯。酒もないのにそれなりに楽しい夜でした。
 
 2日目は、山頂往復。全員の集合写真です。曇天でしたので、楽しみにしていた飯豊の眺望は見られませんでした.みんなカッターシャツなので温かかったのでしょう。また、帰りのホワイトアウトも心配なかったのでしょう。一王子では、4泊したと思います。雪洞を掘って交互にそこで寝たり、灯明沢に落ちる急斜面で100メートルも滑って遊んだり、つらくとも楽しい日々だったと記憶しています。油こぼしの斜面で雪上歩行訓練を行っているときに、OBの方お二人にお会いしました。記録には、お一人は「相馬さん」とあります。
 

間違いなく45年卒の相馬隆幸さんではないかと、 同期の坂上が言っていました。そして、掲示板でご存じでしょうか、まさしくご本人でした。 相馬さん提供の写真、白黒写真右上で立っておられる同期の田中さんが撮られた写真です。30数年経って、偶然の出合がここでつながりました。これも、かいらぎ山岳会のホームページが導いてくれた奇跡だと思います(ちょっとオーバーでしょうか)。
 
 

「モグラ坂上」と書いてあるのは、坂上が雪目になってしまい、前日はテントキーパーで、この日ゴーグル姿だからです。「オレ」とは、小川です。下の写真は、定高山上部に作った雪洞です。非常時の訓練ということで、スコップなしで掘りました。食器やコッヘルを使った覚えがあります。
 
 



この当時の夏山は、飯豊に決まっていました。

1日目 東赤谷~湯の平
2日目 湯の平~洗濯平
3日目 洗濯平~飯豊本山~大日往復~
洗濯平 4日目 洗濯平~北股~門内~飯豊山荘
5日目 飯豊山荘~小国

 

 

湯の平で遊ぶ1,2年生です。温泉に入って は飯豊川に飛び込む事を、何回も繰り返して 遊んでいました。

 

翌日、オーイン尾根へ。最初の急登を登り終わった後の
小休止。ここでまたもや悲劇が起こりました。1年生がキスリングを落としたのです。音を立てて北股沢に落ちていきました。中には、テント(2幕の内の1つ)と、コッヘルが入っていました。さあ、どうする。幸い食料は落ちなかったので何とかなるだろうと言う事で、2年生でジャンケンをして負けたヤツが湯の平まで下り、鍋を借りてくることになりました。負けたのは、高橋堅君でした。
  一人だけサブザックを担いでいるので、戻ってきた直後でしょう。管理人がいなかったので書き置きして借りてきたとのこと。もう時効だと思いますが。・・・
 
 なんとか洗濯平に着きパチリ。(坂上と古川がいつもいないな。)
杉浦先生と代わった新顧問高橋先生もいっしょです。「ここだけだぞ。眠り薬だ。」と、高橋先生がウイスキーをちょこっと振る舞ってくれました。今は、道も途絶えた洗濯平。ハクサンコザクラと雪渓が見事な良い幕営地でした。
 恒例の飯豊本山、大日往復。天狗の庭の撮影ポイントで。この翌日は、台風が接近。強風の中、身をかがめて門内まで行き、梶川尾根を下りました。キスリングを落とした1年は、この後、確実に鍋を返却しに行きました。
  下山後、3年の山田さんが、「なぜ、キスリングを落とすような所で、小休止にしたのだ。」と、リーダーとしての配慮が足りなかった2年生をしかりました。